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彼岸ウェブログ

ギコぽい配信の話題を書いていくスペースです。日記はバックナンバー、曲目はリストからどうぞ   【BARギコっぽいONLINE(一般)】 → http://l4cs.jpn.org/gikopoi/

過迄 彼岸

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獣人に心血を注ぐ物書き・描きです。
同じ趣味思考の同志を募集中。

就職に向けて絵の勉強中(’A`)
いつか絶対ケモゲー市場に出してやるんだからねっ!
配信終了ナンバーを追加していきます
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June 15

6.15日 久々の放送でした

本日6.15にバーで久々の放送をしています(*´ω`*)
実生活で修羅場が重なりまともにIN出来てませんでしたが、これからはちょくちょく戻れそうです。

今まで通りにまったり、時には企画をしたりでやっていこうと思います。
お暇で奇特な方はよろしくお付き合いくださいませー。

本日のプログラム
Norah Jones メドレー
その他、まったりめの曲数点。
February 21

2月20日ラジオ講義完了です

ついに出演が決まった「ギコぽい放送大学」その本番をたったいま完了してまいりました!
緊張しまくりでgdgdでしたが、お楽しみいただけたでしょうか。
 
思ったより多くの人が残ってくれて感涙です(´;ω;`)
途中で落ちてしまったりご迷惑をおかけしましたが、参加して頂いた方々ありがとうございました!
また機会があれば参加しようと思います、そのときはまたよろしくっ。

では、以下は発言したとおりに原稿のコピペです。
色の関係で読みにくいと思うので、じっくり読みたい人はメモ帳にでもコピペしてね><

洋食器概論原稿

1.序論 食器の楽しみ方。
 結婚式の引き出物で貰った輸入洋食器が、大事に大事に棚の奥にしまい込まれていないだろうか。
 あるいは、そこかで手に入れた記念品のティーカップが箱ごとほこりを被っていたりしないだろうか。判ってはいるが、ついつい縁が遠くなりがちな洋食器という世界。
 なんだかディナーセットをそろえないといけないような気がする、高いから割ってしまうのが怖い。そんな先入観やイメージのせいで使っていないのだとしたらとてももったいない。
 洋食器の楽しみ方は大まかに行って3つだろうと思う。一つは使う楽しみ、色、柄など和食器にはない演出が出来る。次は見る楽しみ。美しいカップや小皿はそれだけで素敵な飾りになる。最後は集める楽しみ。美しさに引き込まれるとシリーズものや同じ形の柄違いなどを揃えたくなってしまう。
 この序論ではまずこの内最初の2つの楽しみ方を土台において、かる~くお話していこう。

@使う楽しみ
 高級な洋食器といえど、道具である。使ってみないと善し悪しはわからない。今でこそ日常気軽に洋食器を使えるようになっているが、それもほんの20年ほどの事。それ以前は使う事はおろか、さわった事もない人達が多かった。
 値段が高かったり、なんだかフルセットそろえなければならない気がしたり、食文化が違っていたり。そんな理由で昔はなかなか洋食器という物が浸透しなかった。
 洋食器を使って楽しむ、などと改まって言ってみると、なんだか趣味の世界のような気がしてセット一揃い買わないと恥ずかしいのでは、なんて考えてしまうかもしれない、けどそれも誤解だ。
 本家本元である西洋人でもそんな買い方は希だ。ロイヤルドルトンでも主要な売れ筋といえばディナー皿。ディナー皿一枚、であってディナーセットじゃない。ようは必要に応じて皿だけ買う人も、パン皿を追加する人もいて、結局は人それぞれという事だ。
 確かに食文化は違う。日本人は和洋中なんでも食べて色々な器が必要になる。食べ方だって違う。なら必要な物だけそろえればいい。もしお高い趣味の領分として楽しんで使う、事を敬遠しているなら考え方を変えればいい。
 ディナー皿だって、直径27センチから25センチぐらいのものだが、これは西洋料理のメインディッシュに使われる物で、肉や魚にたっぷり温野菜が添えられている状態を想定してこう呼ばれる。しかしそのディナー皿にでっかいパイが乗っていて、それを取り分けて使ったって別にいい。輸入メーカーが売り込む名前だの用途だのに拘ると形式にしかならないのだ。
 一応の基本知識をふまえておいた上で、自由な発想で適当に使ってみる。食文化の違いを利用してさらに豊かで個性的な食卓を作ってしまえるのも日本の強み。そう考えてしまえば、食器という楽しみは大きく広がっていくはずだ。

@見る楽しみ
 洋食器は綺麗だ。話頭期では味わえない華やかな色や柄がそこにある。時々言われるが、洋食器は色や柄がきつくて料理が負ける、だから使いにくい、という考え方があった。
 これは一面では事実。色が柄によっては料理が負けないまでも喧嘩する事は多々ある。
 けれど我々は料理の色や器の形を厳密にコーディネートしているだろうか。この器は補色だからこの料理にこうしてこう使う、なんて毎日考えて盛りつけたりしているか。そんなことはない。色と料理が合わない、というのは常識の嘘なのだ。
 有名なレストランに行くと盛りつけられる器には柄がない事が多い。シェフは白い器がお好みだ。プロは食材の味と見栄えが勝負、器は脇でないといけない。おまけにどんなに少なくても5~60人の器はそろえておかないといけない。使い勝手から言っても、予算から言っても、一番無難な白い器に落ち着くのは当然。これをまぁ多くて5~6人の日本家庭にそのまま持ってくることもないだろう。
 少し使う話になってしまったが、この色と柄は飾りものとしても使える。
 やきものを飾る習慣は用の東西を問わないが、ヨーロッパにはウォールプレートという壁に皿を掛ける飾り方がある。イギリスの古いパブの写真を見てみたりすると、壁に並んでかかっていたりするあれだ。
 どれもたいして値段は張らないが、部屋が華やいでくれる。 
 このように西洋はやきもので部屋を装飾するのがすきだし上手だ。それはそもそも、洋食器という物が高級品で中国や日本から輸入されて発展したという歴史があるからだ。高級品なのだから、初めは道具ではなく、観賞用の美術品として扱われたのは当然。そうして発展したのだから、飾りものにふさわしくないはずがない。
 メーカ0では絵付けをした大皿を額に入れていたりする事もある。小さい皿立てを使えば変形皿もちょっとした装飾品になる。カップだっていくつか並べれば立派な装飾だ。
 クリーマーに花を生けて花と器を両方見るという楽しみ方をしていた人もいる。別に決まり事はない、一つ好きな柄が見つかったら自分なりに好きにインテリアにすればいい。
 いつもの風景が一風違って見えるはずだ。

@収集する楽しみ
 (´・ω・`)コンセプトとちょっとあわないので割愛。


2.洋食器の歴史
 では、ここらで本格的に食器についてお勉強していきましょう。まずは食器の起こりとその発展。
 いったいどうやって食器が生まれて、どんな影響を受けたのか。簡単に歴史をひもときましょうか。

@土器から磁器へ
 まずはやきものの種類についてお勉強。
 やきものは大きく分けて4つ。土器、炻器、陶器、磁器の4つだ。何が違うかというと、主に材料と焼くときの温度。使う年度の種類や人の強さでできあがる焼き物の性質が違ってくる。人はよりすぐれた物を作ろうと土器、石器、陶器、磁器の順に色々な工夫を凝らしながら技術を開発してきた。
 まずは土器。これが人類初めて作った焼き物で、生まれたのはだいたい1万2000年前ぐらいとされている。それまで60万年も石器の文化が続いているのだから、土器が発明されてから今日までの進歩の速度はすさまじい。濃厚牧畜定住、といういつか学んだライフスタイルは土器があって初めてできあがったものだ、土器こそ人類史に一線を画して大発明といえる。
 何がどう大発明なのか、というと「火を通して土を硬くする」という技術。おそらく土器以前は年度を固めて太陽で乾燥させるだけの器が使われていた。一応器としての役目は果たせる。だがそれだけだとなんとも脆い。時間がたつと崩れてしまうし、水に触れても崩れてしまう。しかし火を通して焼き上げると堅くて丈夫になった。木の実などの収穫物を長い間入れておける器が出来たのだ。
 しかしこの大発明にも弱点がある。粘土を焼いただけなので密度が荒く、水をよく吸ってしまうという事。これでは水を長く保存できない。そこで登場するのが炻器だ。
 炻器とは窯を使って土器を1200度という高温で焼き上げた物。そうすると粘土自体が堅く焼き閉まり、全く水を通さない焼き物ができあがる。しかも焼き上がりが緻密で、土器とは比較にならないほど堅い。ここにいたり、人は火の温度を上げると、土器より機能的に優れた物が作れる、という事を発見したのだ。
 ちなみにこの炻器という字は、英語のStoneWareから直訳して作られた漢字である。つまりは石のように堅い、という意味。なので明治以前には炻器という名前がなく、焼きしめ陶器、と呼ばれていた。
 次に生まれるのが陶器だ。冬期の最大の特徴はなんといっても釉薬だろう。釉薬とは器の表面にかかっているガラス質の薄い膜の事。この発明によってやきものは完全に水を通さなくなり、実用性では完璧な物になった。
 発明は中国では紀元前5000年ごろ、エジプトは紀元前3000年ぐらいと言われている。そのほかの文明でもだいたい共通で初期の頃に作られる。
 釉薬の発明にはちょっと面白い話が。これは偶然出来た産物なのだ。炻器を焼くときに燃料は木や草だったが、その灰が器にかかった。そして火の温度が1000度を超える、すると灰が溶けて性質が変わり、ガラス質の幕になったのだ。なんでそれが判るかというと、その偶然の産物が発掘されている。意図しないで釉薬が部分的にかかった炻器が残っているのだ。 
 釉薬だけでなく焼き方も変わる。火を通すのは二回。初めは粘土を焼いて、ここで止めればただの土器。次に釉薬をかけてから、もっと高い温度1000~1200ぐらいで約。こうして作られるのが陶器だ。
 日本の器は今でもこの陶器が圧倒的に主流だ。焼き物の代名詞瀬戸焼、志野焼、萩焼、美濃焼。あげればきりがない。どれも、地元の粘土の特性の違い、釉薬の違いでそれぞれの独自の風合いを出している。これだけ色々な津興が開発された国は他にない。
 しかし、西洋の食器に一番影響を与えたのは陶器ではなかった。
 陶器までは他のどの文明にもだいたい共通する発展なのだが、陶器に満足していない文明が一つある。それが中国。そして、ここで磁器が誕生するのだ。この磁器こそが西洋食器のルーツであり、西洋の各国貴族達を熱狂させた神秘だった。
 ではなにがそこまで良かったか。磁器の最大の特徴は、色が白く、光を通すという事だ。この景徳鎮の磁器が生まれるまで、一応白い器がなかったわけではない。しかし、元が建国された頃に誕生したこの磁器、は、真っ白で、光を通すようになった。
 磁器の皿を明かりにかざして手を置くと、手の形が透けてはっきり見える。この半透明な性質こそ、最も重要な要素だ。
 西洋がこの磁器を開発するまでの涙ぐましい努力はまた次に話すとして、磁器の作り方を言っておこう。やはり秘密は原料と火の温度。まず、使う粘土はカオリン、というもの。不純物が少なく色が白い。そして、もう一つの原料の石だが、石英と長石が主に使われ、まとめて陶石とも呼ばれる。この石を砕いて、不純物を取り除き、カオリンを混ぜ合わせた物が原料だ。
 この長石は高温で焼くと溶けてガラス質になる。つまり長石という石が、磁器を磁器たらしめる原料だ。
 次に石英は骨組みの役目を果たす。とけた長石を骨のように支えて器の形を維持する。そしてカオリンの役目はこれはつなぎ。ろくろで形を作るときなどに粘りけを出し、形を作るのに役に立つ。そして窯の温度は最も高く1400度も必要になる。
 磁器の製造には実に数多くの技術と知識が必要だ。好物の知識、石を粉に引く技術、3つの原料の比率を決めるまでの試行錯誤、不純物を取り除く作業、1400度の温度を保つ技術。深い歴がなければ磁器は作れなかった。ただ土をこねて火に入れただけの土器から比べればどれだけ高い技術で作られているかが判る。既にその間には9000年の時間がたっている。
 
@西洋のものまね
 中国時期が西洋に入ってきたのは意外に早く12世紀頃とされている。アラビアの商人が持ち込んだのだ。それまでの焼き物といったら、灰色か茶色であつくて重くて不格好。白く薄く光を通す磁器を見たときどれだけ魅了されただろうか。輸入物として量も少なく、貴金属や宝石と同じ値段で取引されていた。だがこの時点ではまだどの国から時期が来たのかは知らなかった。
 13世紀にマルコポーロが中国を訪れたとき、ここで西洋の人々は魅力的な器の原産地を知る事になる。中国からマルコポーロが磁器を持ち帰ってから、研究が始まり、様々な試みが行われるようになったのだ。
 時代はとんで16世紀末期。イタリアのメディチ言えの職人が画期的な焼き物を作った。陶器の粘土にガラスを混ぜて、磁器の半透明さを再現しようとしたものだ。これが西洋で始めての磁器、メディチ磁器だ。
 もっとも、中国磁器とは作り方も外見も違う模造品ではある。
 メディチ磁器の生地は白と言うよりくすんだ灰色。きめは粗く、厚みもかなりある。一応中国風の染め付けはしてあるが、その色もさえない。
 このできあがりは別として、このメディチ磁器の開発は歴史の扉を開くきっかけとなったのは間違いない。何が画期的かというと、粘土に何かを入れる、というこの発想にある。
 それまでは土を焼くだけで何かを混ぜるという発想事態がなかった。土の種類や窯の温度は研究されていたが、材料自体は変わっていなかったのだ。しかし中国の磁器は言ったように、石を粘土に混ぜて作る。いくら粘土を研究しようが到達できるわけがない。
 土以外の物を混ぜる、この発想のきっかけになったメディチ磁器はその意味で画期的だった。
 しかし問題がある。ガラスを混ぜると生地が柔らかくなりすぎて、焼いている間に形が崩れた。あんまりにも崩れて生産効率が上がらないので、やがてこの技法はあきらめられてしまう。
 そして17正規。もっと簡単に白い器を作る方法が開発される。フランスのファイアンス焼き、イタリアのマジョリカ焼、オランダのデルフト焼[1]だ。国によって名前は違うが、技法は全て同じ。陶器の上から白い釉薬をかけて、外見上白い器を作ろうとしたのだ。この釉薬は錫から出来ていたので、まとめて錫柚陶器、とも呼ぶ。
 このころになると庶民の間にも中国磁器への要望が高まるが、どうしてもあの白い生地は作れない。見かけだけでも、とこの錫柚が作られたのだが、ただ白い化粧をしただけなので当然光は通さないし薄くもない。だが見かけが白いだけでも喜ばれ安価に製造できた。このためこの錫柚陶器は一般庶民の間に人気になる。
 では金のある王侯貴族はどうか。この時代になると東洋との交易が盛んになって、多くの磁器が輸入され、その熱狂ぶりは頂点に達した。
 なかでもオランダは大きな役目を果たす。当時のオランダは屈指の海運国。この力を背景に、オランダ東インド会社を設立、東洋との磁器の交易に本格的に乗り出した。
 これをきっかけとして大量の磁器が輸入され、王侯貴族に売り出される事で熱狂的コレクター層を作った。貴族達は競って磁器を買いあさり、それは富と権力の象徴となる。当時の磁器は輸入が増えたと言っても希少価値が高く、身体を飾るのは宝石、館を飾るのが磁器、といった具合だった。
 ここで大事なのは磁器は食器ではなく、高価な装飾品として扱われていたという点。この位置づけがあったから、後に色々な国が競って自国産の磁器を作ろうと躍起になるのだ。富を得る手段だったからこそ、西洋の磁器開発競争を起こしたと言ってもいい。
 この位置づけを確立したという点で、洋食器の歴史上、オランダ東インド会社の意味は大きい。
 また、この交易で日本の磁器がやってくる。むろん、日本は自力で磁器を開発したのではなく、朝鮮の陶工の助けを借りていた。九州でカオリンを発見し、磁器が完成、酒井田柿右衛門が紅い色を出し、華やかな色絵がつくようになる。さらに後期になれば絢爛豪華な蒔絵風デザインが出てくるようになる。
 当時おらんだひの仕入れ先は中国なのだが、17世紀半ばに王朝がすいたい、商品が手に入らなくなった。そこで次に目をつけたのがお隣の日本。早くから長崎に寄港していたおかげで交渉はすぐに成立、有田焼に注文が殺到した。なお、有田の焼き物は全て伊万里の港から出荷されていたので、まとめて伊万里焼と呼ばれている。いまでもイマリ、と言えば日本磁気の代名詞だ。
 伊万里焼は柄のデザインにおいて大きな影響を西洋に与えている。特にオランダではデルフト焼きの生地を使い、文様も原作そっくりに作られている。
 そして18世紀初頭、ついにザクセン王国のアウグスト強王が磁器の開発に成功する。
 だがその開発は穏やかではない。磁器の国産かを国家の最優先事項と考えた王は、フリードリッヒ・ベトガーという19歳の錬金術師を、磁器の完成を釈放の条件にして要塞に監禁してしまう。無茶苦茶な話だ。科学の基礎を作った錬金術でも、実態は石でも鉄でも全部金に変えますよー、というイカサマだ。磁器を作れと言われても出来るわけがない。だがベトガーも命がかかっている。専門の科学者の助けを借り、近くの山中でカオリンを発見して本物の磁器を開発する事に成功する。
 このベトガーの成功を元に本格的な工房がマイセン、という街に作られる。これがマイセン窯の始まり。ベトガーの名前は晴洋食器の歴史に名を刻む事になる。
 だが悲劇はここで起きる。この製法が国外に漏れる事をおそれた王は、ベトガーを釈放しなかった。哀れベトガーは幽閉されたままで酒浸りの毎日を送り、37歳の若さで死去する。
 しかし皮肉なことにこの製法はすぐにヨーロッパ中に知られてしまう。工房から脱走した職人が身売りしたり、他の国から金で引き抜かれたり、婚姻で連れ出されたり、などなど。
 まずは隣のオーストリアにウィーン窯が出来る。これはアウガルテンという名前に変えて現在に至る。さらにプロイセン王国にもKPMという窯が作られる、これも現在まで存在。ベトガーが監禁されたドレスデンにもドレスデン窯が開かれた。1735年にはイタリアにジノリ候がドッチア窯を作った。これが現在のリチャードジノリ。またフランス王室がセーブルを開き、デンマークがコペンハーゲンを開いて、やや遅れてハンガリーにヘレンド窯ができあがる。
 こうしてベトガーの成功をきっかけに、ヨーロッパでの磁器文化は18世紀一気に花開く。もちろん、開発が進んだと言っても高価なのは変わらず、王侯貴族でもセットを組む事はほとんど出来なかった。
 ちなみに、磁器が使われる前に王室の食卓で使われていたのはご存じ銀器。フランスの王室により、何の食べ物に何を使うかが厳密に決められていた。
 我々が今日考える洋食器という堅苦しいイメージは、この銀器をそのまま磁器にとっかえたものだと言える。つまりは美術品から実用品に目的が変わる際に、この銀器の使い方がモデルとなったのだ。
 だから洋食器には色々な皿や体系的な構成があるのだ。特殊な型にはまっているのは、王室という特殊な環境で育まれた物だからだ。

[参考]1 デルフト焼き http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/mkn-tr/cabinet/delft/pla008.jpg

@ボーンチャイナの開発
 ここまでは大陸ヨーロッパの話だった。では海を挟んだイギリスはどうか。実はイギリスは大陸とは全く違う発展をしている。
 18世紀頃、ロンドンのボウという窯が動物の骨を焼いた灰を焼き物の原料に混ぜてみた。試行錯誤の末、1790年頃、ジョサイア・スポードがついにそのレシピを完成させる。これが、ボーンチャイナ。ボーンは骨、チャイナは焼き物を意味する英語の俗語である。
 ボーンチャイナが他のと全く違うのは、材料に有機物を入れた事だ。今までは土、石などの無機物を熱処理して作られる。しかしボーンチャイナは骨灰を使う。これは18世紀になってイギリスで始まるまで誰一人考えなかった材料だ。
 何でそんな物を混ぜるのか。優れた磁器が出来たからだ。まず色が違う。同じ白でもボーンチャイナは温度のある乳白色。他の磁器は青のかかった冷たい色だ。二つを並べてみると一目瞭然。[2][3]
 さらに違うのはその強度。ボーンチャイナは普通の磁器にくらべて倍は堅い。この強さの秘密は、骨灰にある。カルシウムが化学反応を起こし、分子と分子の結びつきが強くなって、生地に粘りが出るからだ。それに対して一般の磁器は堅く焼き締めてあるおかげで衝撃にはかえって脆い。
 このように、ボーンチャイナは磁器でありながら、普通の磁器にはない性質を持っている。元素中国でも創造し得なかった独創的な焼き方だ。ここにきて、イギリスはオリジナルの文化を創ったのだ。
 ボーンチャイナの完成は18世紀末期ごろだが、むろん、それ以前にも窯元はある。ロイヤルウースターやロイヤルクラウンダービーなどがあげられるが、名を残すイギリスの有力釜は、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、相次いで設立されている。
 この理由は産業革命にある。この産業革命の結果、裕福な市民階級が誕生し、高級品の需要が今まで以上に高まったのだ。大陸の磁器は18世紀初頭花開き、王室の御用達として舷梯された人のために作られた。だがイギリスは18世紀後半より、他国に先駆けて工業化の波が起こり、富が増えた。メーカーを起こすには絶好のタイミングだ。
 同時に、イギリス王室もこれらのメーカーを積極的に保護・育成した。会社名にロイヤルという名前を付け、特許を与え、王室のお抱えとして指定する事でブランドイメージを作った。こういった保護育成のやり方は大陸とはだいぶ違う。マイセンなどは王様が自分のために自分で作った、だがイギリスは一般市民が興した企業に王室が後からお墨付きを与えている。
 さて、イギリスではちょうどこのころに、紅茶を飲む習慣が広まりを見せていた。ティーカップ、ティーポットが必要になるのは言うまでもない。紅茶文化と共に、ボーンチャイナは庶民の仲に広まっていく、こうして発展し、高級洋食器の代名詞として使われる事になるのだ。

[2] ボーンチャイナ http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/mkn-tr/cabinet/delft/pla008.jpg
[3] 硬質磁器 http://a248.e.akamai.net/f/248/37952/1h/image.shopping.yahoo.co.jp/i/j/karabanashop_y0008

3.釜すとーりー
 ここでブランドの歴史を追ってみよう。といっても全ての釜は紹介できない。メーカーを網羅したカタログはあるので、そこに習う必要はないだろう。
 適当にピックアップしたブランドの創立や特徴などをかる~くご紹介しようと思う。
 ちなみに紹介順番は設立順。

@マイセン 1710年ドイツ
 釜の成立はもう述べているので、ここではその後を見てみよう。
 1720年、ヘロルトという画家が絵付けとして招かれる。その3年後には宮廷画家の照合を授けられ、中国時期の模倣に才能を発揮。また1731年に休廷彫刻家ケンドラーが加わって、主任モデラーとなった。大型の彫像、小型の人形、スワン・サービスなどがこうして生み出された。彼によって洋食器と人形など置物の形状デザインは決定的に方向付けられたと言っても過言ではない。後に続くあらゆる釜がケンドラーの作品に大きな影響を受けている。
 こうして設立後20年、マイセンには洋食器の作成に必要な3つ、生地、がらデザイン、形状デザインに優れた人材が揃った。そしてほぼ高級洋食器市場を独占する形で全ドイツ圏フランスオランダを中心とするその他主要ヨーロッパに絶対的派遣を誇る事になる。
 もっとも、こうした影響にもかげりが出てくる。18世紀半ば、白磁の生地が他の国でも作られ始めた頃。このうちセーブルの台頭はすさまじいく、より洗練されたデザインとフォルムで業界をリードし始めたのだ。銜えて、美術様式にも変化があり、優雅なロココ様式から簡素な新古典様式に移っていったのだ。
 現在では、流行とは離れた場所でマイセンらしいバロックやロココの作品が作り続けられている。
 今でも絵付けは全て手書き。緻密さと正確さ、発色の美しさは他のつい津胃を許さない。人形などの置物の造形美においても描写力や表現力でレベルが高い。
 設立から300年近くたった今も、技法や技術を衰えさせていない点もすばらしい。

[参考]マイセン↓(Flashあり)
http://www.meissen-japan.co.jp/

@ウィーン 1718年 オーストリア
 マイセンは白磁期に成功してからたった8年、この秘伝は速くも漏れた。尾連打の軍人、デュ・パキュという人物がマイセン時期に感激し、マイセンから絵付けしと陶工を引き抜き、ウィーンに窯を開いたのだ。
 設立一年で白磁期を焼く事に成功。マイセンの影響濃い作品を発表し始める。
 やがて1744年、ハプスブルク家の女帝、マリア・テレジアにより買い上げられて国営化が図られた。18世紀中頃絶頂期を迎えるのだが、女帝の死によって一般に売り出され、織物業者ゾルゲンタールの手に渡る。
 新古典様式の優れた作品を発表し、第二の黄金期も迎えるも、1764年、窯を閉じる。150年弱の歴史に、ここでいったん終止符を打ったのだ。
 そして1924年。マリア・テレジアの狩猟用の城だったアウガルテン離宮に窯がたてられて現在に至る。
 
@リチャードジノリ 1735年 イタリア
 16世紀既にメディチ家が擬似的な磁器を作っていた事は既に述べた。そこからマジョリカ焼きにもふれた。イタリアは陶磁器制作では先進国と言っていい。
 そうした伝統があるのか、比較的早く真正磁器が完成している。1735年、貴族院議員でもあったカルロジノリ侯爵によって、自領内のドッチアにドッチア窯が開かれた。はじめは自宅用の製品死活kつていなかったが、10年後には他の貴族の注文に応じてディナー・ウェアも作り始める。
 そのご経営はジノリ侯爵家に代々引き継がれ、1790年代3代目のカルロ・レオポルド候の時、フランスからカオリンを輸入し、製品の質をさらに高め、フィレンツェに初の直営店を出したりなどして経営を拡大した。1807年にはナポリ王の運営していたカポディモンテ窯から、鋳型やデザインを受け継いで作品の幅を広げる。このカポディモンテ[4]は現在でも生産中。そして1896年、ミラノのリチャード製陶所と合併して、現在のリチャードジノリができあがった。
 ジノリの特徴はなんと言ってもデザイン様式のバリエーション。マイセンやセーブルが一つのスタイルに邁進しているのと比べると大きく違う。初期はロココ、新古典様式、アール・デコなど様々だ。どの様式でもデザインの完成度が高いのも特徴だろう。

[参考]ジノリジャパン↓ 
http://www.ginori.co.jp/top.html
[4] カポディモンテ http://www.ginori.co.jp/collection/detail/img/t152110.jpg

@ロイヤルクラウンダービー 1748年? イギリス
 ロイヤルクラウンダービーほど経営者が変わった窯はないだろう。イギリスでは経営者の名前をブランド名にしているが、ダービーは人名を使わなくてよかった。このダービーはダービ-シャーという地名によるものだ。
 イギリス釜では唯一、ロイヤル・クラウンと2つの王室関係の名称を持っており、二度王室御用達の勅許状を受けているという点も特徴的だ。ではその流れを軽く流していこう。
 1748年頃にユグノー教徒のアンドリュー・プランシェという人物がロンドンからダービーに引っ越し、小さな人形や動物の置物を作り始める。これがダービー釜の始まり。
 このころの人形は四季や四元素をモチーフにしたマイセンに影響を受けているものだ。成り立ちは人形で、テーブルウェアではない、というのも特徴的。
 8年後の1756年、ウィリアム・デューズバリーというエネメル絵付け師が経営に加わった、その共同経営が4年たったころ、設立者は家庭の事情で引退、窯はデューズバリーが引き継いだ。
 ここからダービーの躍進が始まる。デューズバリーの夢は「第二のドレスデンになること。大陸ヨーロッパのフル釜をお手本にして、置物やテーブルウェアを作り、そのデザインと豪華な金彩と高い品質で急速に名声を打ち立てる。また、ボーンチャイナを作ったボウ窯、人形制作で有名なチェルシー窯を吸収し、職人をダービーへ連れてきて作品の工場に勤めた。
 そして1773年、ロンドンにショールームをオープン、ここにシャーロット王妃がやってきて、長年にわたって数多くの品を購入する事になる。kろえがダービーと王室の関係の始まりである。この結果、1775年に国王ジョージ3世より王室御用達の勅許状と、社名にクラウンをカンするように指示ももらい、このときから社名がダービークラウンとなったのだ。
 デューズバリーの死後、経営は息子が受け継いだ。この息子も芸術的センスと商才を持ち、窯をさらに大きく発展させた。だがその映画は10年程度しか続かない、共同経営者としてマイケル・キーンを迎えた翌年に、デューズバリー2世は死去。この共同経営者が2世の未亡人と結婚、窯の継承について法廷議論がひたすら続いた。そのごたごたの間に窯は衰退し、結局キーンは街を去る事になる。
 9世紀初頭、工場の事務員が買収して経営者となり、再興を試みるも10年後には精神異常をきたし死亡。100年あまり続いた窯の火はいったん閉鎖された。
 しかし同年、6人の優秀な職人が独立して、キングストリートに自前の工房を建てて生産が再開された。柄の絵付けも鋳型も全てダービークラウンの物がそのまま使われ、歴史は受け継がれたと言っていい。
 ただ6人の小規模な窯なので商品内容には限界があり、高級で少量生産の物だけ作られた。
 人形、テーブルウェア、置物。いずれも豪華な金債と色々な技法をこらした物ばかりで、伊万里柄の模倣もその代表作として作られ続けた。
 そして、これと並行するように1878年新しい二人の経営者によりオスマストンロードという場所に改めてダービークラウン磁器製造会社が設立された。新しく著名なアーティストを多数集め、中央美術に影響を受けた作品を発表する。技術面でもエッグ・シェルという非常に薄い生地を開発したり、盛金技法[5]を使ったり、酸で金を腐食させて凹凸をつけるアシッド・ゴールド[6]を取り入れるなど色々な革新を起こした。
 そして、1890年、このダービークラウン磁器製造会社が、時のヴィクトリア女王から王室御用達の勅許状を受け、社名をロイヤルクラウンダービーに変えたのだ。
 つまり、二つ御用達を貰っているのは一回経営が途絶えたからだ。1971年エリザベス皇太后を招き、1987年にはダイアナ妃まで訪れる事になる。この二人の感謝状は、今も飾られている。

[5] 盛金技法 http://lib12.store.yahoo.co.jp/lib/kutani-taigadou/sk-002_6.jpg
[6] アシッドゴールド http://www.cup-of-tea.com/image/MintAcidGold6Qt.jpg

@フランス国立セーブル製陶所 1756年 フランス
 洋食器の歴史上、デザイン面ではずす事の出来ない窯だ。
 マイセンの成功を目の前で見ながら、フランスは長らく磁器の生産が出来なかった。カオリンが手に入らなかったのである。なんとか磁器を作ろうとして民間がヴァンセンヌに窯を開いたが、何一つうまくいかずに3年で経営破綻。そこで王室も本気になり、あらゆる再興の人材をヴァンセンヌに送り込んだ。
 このとき、類15世の愛妾で、芸術美術に理解の深いポンパドール夫人が登場する。彼女の支援もあり、ヴァンセンヌ窯は正式に王立磁器工場となり、1750年代から巧く回転し始め、より大きな工場を求め、セーブルという場所に窯を移転させた、これがセーブル釜の成り立ちだ。
 やがて1760年から70年代。セーブルの黄金期が来る。デザインで洋食器の業界をリードするようになるのだ。セーブルの磁器は砂、塩、硝石、石膏を混ぜて焼いたり砕いたりして作る複雑な物だった。この斬新なデザインスタイルがこの磁器の生地の上で生まれた。そして、これらがロココ様式の流れを作っていく。

[参考]公式ないのかな・・?↓
http://www.metcorp.co.jp/sevres1.html
 
@ウェッジウッド 1759年 イギリス
 イギリスというのは磁器に関しては非常な更新国。16世紀になるまで食器としてテーブルの上には乗らず、金属、ガラス、木製品がもっぱら使われていた。17世紀にドイツの影響を受けて炻器の特許が取られ、その後を追う人々が現れる。ウェッジウッド家もそういった人の一人だった。
 1730年、ジョサイア・ウェッジウッドは、三代続いた陶器メーカーの第13子として誕生した。父親の死後に修業時代を過ごしていたが、兄から家族の窯に参加する事を拒否され、29歳に独立して自分の窯を作る。これが現在のウェッジウッドの始まりだ。
 ここで焼かれていたのは緑の釉薬がかかった素朴な陶器。野菜をかたどったテーブルウェアだ。1762年になると釜を移転し、そこでクリーム色をした生地の陶器を作った。生産効率を追求したこれは後にシャーロット王妃に注文を受けた事からクィーンズ・ウェアと呼ばれ人気を博する。
 そして1744年にジャスパー・ウェアが完成する。これこそがウェッジウッド最大の功績だと言える。炻器に改良を重ねて作られた無柚の炻器だ。粒子が細かく格段に肌がなめらかで美しい。1790年にはこれを用いて有名なローマの壺、ポートランド・ベースをこのジャスパー炻器を使って復刻させた。この復刻によってウェッジウッドの名前は広く知られる事になる。
 現在では、アイルランドのクリスタルメーカー、ウォーターフォードと合併し社名をウォーターフォード・ウェッジウッドと変えている。

[参考]ウェッジウッドジャパン↓(Flashが始まるので留意)
http://www.wedgwood.jp/
 
@ロイヤルコペンハーゲン 1775年 デンマーク
 マイセンに遅れること60余年、薬剤師ミュラーの手によって、デンマークにも白磁器が誕生する。コレに興味を持った王室が援助をし、1775年に窯が設立された。4年後には国王が全株を買い取り、正式に王立デンマーク磁器製造所となった。
 当初から染め付けを得意とし、設立とほぼ同時に発表されたブルーフルーテッドは、200年以上作り続けられるロングセラーである。しばらくはマイセンの影響の濃い作品を作っていたが、1790年にフローラダニカ[7]を制作し始める頃には独自スタイルを持っていた。
 フローラダニカはロイヤルコペンハーゲンを語る上で欠かせない。デザインのモチーフに「デンマーク王国の花」という植物図鑑を使ったためこの名が付いた。花の絵付けは性格、図鑑で判らない細部は実物を取り寄せて描写したという。この緻密な作業のために絵付け師は視力を失ったとさえ言われる。
 1868年に王室が窯を売却し、2度経営者が変わる。現在ではブルーフルーテッドなどの染め付けを中心に、いかにも北欧らしい柔らかい色合いのテーブルウェアや人形を制作している。マイセンやセーブル、またそれらに強い影響を受けて発展してきた西欧のほとんどの窯とは、少し味わいの異なる作風が魅力的。

[参考]ロイヤルコペンハーゲンジャパン↓
http://www.royalcopenhagen.co.jp/
[7] フローラダニカ http://img09.shop-pro.jp/PA01041/329/product/6828689.jpg
 
@ミントン 1793年 イギリス
 ミントンの歴史はデザインと技術の革新の歴史だ。これだけ色々なデザインを取り入れて、新しい技術を開発したメーカーは世界でも類を見ない。どちらかというと機能を重視するイギリス風の仲にあって、そのデザイン重視の姿勢は独自の地位を作るに至った。その理由は、大陸ヨーロッパの影響を色濃く受けているからだ。
 大陸ヨーロッパの磁器は、王侯貴族を相手にして発展した。金と労力に糸目をつけない美術工芸品のようなデザインと技法。これらが資本主義のイギリスにおいて花開くのは難しい。
 それを私企業として成し遂げたのがミントンだ。王室の評価も高く、「世界で最も美しいボーンチャイナ」とヴィクトリア女王が絶賛したほどだ。なお、この言葉はミントンのキャッチフレーズでもある。
 故にミントンの歴史を振り返るというのは、イギリスのデザインを振り返る、という事にもなる。
 丁寧に語っていくと恐ろしく長くなるので、かなり端折ってご説明しよう。
 
 ミントンは1793年銅板工だったトーマス・ミントンによってストーク・オン・トレントに設立された。既にミントンは銅板工として成功しており、ウェッジウッドやロイヤルウースターからの注文を受けていた。
 会社設立後は銅板工の経験を生かして染め付け風の磁器を作っていたが、1798年、早くもボーンチャイナの製造を開始している。
 1830年から40年にかけて、ミントンは初めの飛躍を遂げる。まずデザインではリバイバルしたロココ様式を取りいれた。このデザインの方向性には間違いなく大陸ヨーロッパの窯の影響がある。
 このロココ様式は王室の目にとまり、その評判は各地の貴族に伝わった。
 そこで商品の内容も変わる。テーブルウェアだけでなく色々なものを作り始める。息子のハーバード・ミントンが開発したものばかりだが、どれも重要な商品ばかりだ。
 まず置物の開発。セールスマンとして各地を歩き回ったh-ばー度はその美しい装飾品の焼き物を見てきた。初めはセーブルの影響が強く模倣だったが、10年後にはセーブル側が驚くまでに技術を進歩させる。
 次に人形。1830年代にマイセンを燃したロココ調人形を作るが、やがて長石を主成分とする新しい生地を作り、方向性を変えた。これがパリアン磁器。大理石とよく似た色で、多くの彫像が作られるようになり、園に来で陶磁器の新しい可能性を示し、名声を高めた。
 そしてタイル。いわゆる事業拡大だ。タイル作りは時間のかかる作業だったが、ハーバードは食器メーカーのノウハウを利用し、能率のいい生産方法を確立した。タイルは煉瓦と違って色々な色が使えて丈夫で清潔。その需要は街全体を埋め尽くしても足りないほど大きかった。
 大英博覧会のあった1851年ごろは金装飾のはなやかなテーブルウェアが目に付いたが、このころから実用性のある安値の食器も作っている。ストロベリー・エンボスという柄もこの時期の傑作。ヴィクトリア女王自身がデザインして使っていた。
 1860年代になると大きな動きを見せた。金装飾の新牛術の開発だ。
 金装飾の名前はアシッドゴールド。金の表面を酸で腐らせ、細かい凹凸をつける技術だ。当時蛍光灯が発明されていなかった頃、晩餐会で使われるのはろうそくの火。その光だと、この細かい凹凸が反射して非常に美しく見えるのだ。王侯貴族にとってこのきらめく食器は卓上の宝石に見えただろう。
 そして1870年代。洋食器装飾至上、再興最大の発明といわれるパテ・シュール・パテ[8]が開発された。
 名前からわかるように筆で何度も何度も粘土を塗り重ね、レリーフのように効果を生み出すのがパテ・シュール・パテ技法だ。
 見かけにはカメオのようで何の変哲もないが、よく見ると、衣服の一部が透けて見えるのが判る。この透明性が最大の特徴。ただの粘土の固まりだったカメオや釉薬で絵付けするエナメル技法では表現できなかったものだ。
 このパテシュールパテの開発と発展にはルイ・ソロンという人物が重要な役目を持っているが、コレを語るとあまりに長いので省略する。知りたい人はぐぐってね!
 時代はとんで1948年。当時のデザイナー、ジョン・ワズワースはボーンチャイナの生地全体を覆うような柄を考えるように社長に命じられた。第二次世界大戦のすぐ後で質が低下し、生地に現れる黒点などの不良を覆い隠すためだった。その翌日に、彼は2つデザインを提出する。
 グリーンやピンクなどの色が使われた物と、青や紫を配置した柄だ。社長は前者を採用し、これが現在でも有名な「ハドンホール」[9]の誕生だ。
 このハドンホールが現在でも常にベストセラー。仲にはハドンホールを「ミントン」と呼ぶ人もいるほどだ。
 現在のミントンは、ロイヤルドルトングループに合併している。

[8] パテシュールパテ http://www.sohbi-company.jp/shopimages/gcom156/0450010000052.jpg
[9] ハドンホール http://www.smartbaby.jp/image/common/item/HN-211-04L.jpg

@ロイヤルドルトン 1815年 イギリス
 ロイヤルドルトンは他のメーカーと違い、ロンドンに窯をたてている。産業革命と市民革命を経てイギリスは世界の中心になりつつあった。その首都、ロンドンに会社があったおかげで、ドルトンは一風変わった発展を遂げる。
 陶工ジョン・ドルトンがテムズ川沿いの欄ベスに窯を開いた。初めはビール用のピッチャーやジャグ、ウィスキーボトルなどの日用雑貨や置物を作っていた。
 設立から20年後の1835年、息子のヘンリー・ドルトンが15歳で入社した。このヘンリーこそが、今日のドルトンを築いた立役者だ。
 まずスティーブンソンの蒸気機関をろくろに応用し、生産効率を飛躍的に跳ね上げた。この蒸気ろくろは80リットルの大型便をtくる際に使われた。そんな大きな便をどうするのかというと、化学薬品を貯蔵するためだ。産業革命にともないかが雲発展し、色々な薬品が発明された。だが入れる器がなかった、金属破産で腐食する、ガラスは割れやすくて危険すぎる。そこでドルトンの炻器が役に立った。こうして関わりを持てたのも、ロンドンに窯があったからと言える。
 時流に敏感なヘンリーは次にガーデニング用の焼き物を作り始める。このころ浮遊市民層の間でフランス風低塩作りが流行していたのだ。さらに、1840年代に大きな転機が訪れる。英国政府からの配水管の発注があったのだ。当時のロンドンはあまりに急激な人口集中によって衛生が悪化、質の悪い水が原因でコレラなどが蔓延して問題になっていた。そこで上下水道の整備に乗り出したのだ。この事業の大成功で会社の経営は飛躍的に発展、そしてさらなる新事業へ向かわせた。ここからドルトンの名釜としての第一歩が始まる。
 その事業とは、アーティストによる自由なデザイン、という考え方を始めて陶磁器の仲に持ち込んだという事だ。
 むろん、古いメーカーいもで事案ー入る、けれどそれは人形の形や柄の手本を作る人であり、生産が始まれば職人達がその手本に忠実に仕上げていく。それに対して行ったのは「作家物」「一転物」といったところだ。
 欄ベス美術学校の卒業生達が採用され、その新しい方向性と芸術性が批評家に絶賛される。ヴィクトリア女王がただちに買い付け、これが英国王室との関わりのきっかけともなる。
 一連の美術的陶芸に対して、王立芸術院からヘンリーにアルバート勲章が贈られ、ヴィクトリア女王よりナイトの爵位を賜ったり、などを経て、1901年、エドワード7世によって王室御用達の勅許状とロイヤルの名前を社名に用いるように指示が出された。このときドルトン釜は始めてロイヤルドルトンとなった。

[参考]ロイヤルドルトン↓現在はグループ企業
http://www.royal-doulton.co.jp/
 
@ヘレンド 1826年 ハンガリー
 ヘレンドは設立こそやや遅めだが、手書きの美しさや透かし彫りの精密さなど、手仕事の味わいで際だっている。
 1826年に首都ブダペスト郊外のヘレンド村で陶器が焼かれ始め、モールフィッシャーが経営者となって、生地を磁器に変え現在に至るヘレンドの基礎が作られた。
 ロスチャイルド家に納めたロスチャイルドバードを始め都市、その作品のレベルの高さで名をはせたヘレンドは、大英博覧会でヴィクトリア女王からディナーセットの注文を受ける。この後、ヘレンドの顧客にはハプスブルク家のフランツヨゼフ皇帝、イギリス国王エドワード7世、ロシアのアレクサンドル2世、その他様々な国の王侯や富豪が名を連ねるようになる。特に当時ハンガリーを統治していたハプスブルク家の庇護はあつく、このころウィーン釜閉鎖の時に、皇帝の指示によってその鋳型やデザインを受け継いでいる。その中の一つに日本でも人気の高い「ウィーンのバラ」[10]がある。
 経営は代々フィッシャー家に受け継がれ、新しい柄の開発や人形の作成などを進めたが、20世紀に入ってハンガリー講話国の建国、二度の世界大戦を経て国営企業となった。
 現在は往々野路優花に伴って再び株式会社になっている。

[参考]ヘレンド↓
http://www.herend.co.jp/
[10] ウィーンのバラ http://www.moshimo.com/item_image/0015700004346/1/l.jpg
 
4.洋食器の製作工程

@生地
 洋食器の作り方はどのメーカーでもだいたい同じ。大陸ヨーロッパ式の磁器とイギリスのボーンチャイナではちょっと違うが、専門的な部分だけのことだ。ここではボーンチャイナを例にとってご紹介しよう。

 まず、ボーンチャイナは骨灰、陶土、陶石を一定の比率で混ぜる。灰は牛の骨を高温で焼いて砕き、粉末にした物を使う。陶石も細かく砕いて水で超し、粒子を均一にした上で材料にする。この皇帝は昔は全て手作業だったが現在では大型の機械を使っている。
 この原料は水で溶かされて混ぜ合わされる。この理由からボーンチャイナの生地は非常に柔らかく、ほとんど液状になる。(これに対して通常の磁器は水分10%ぐらい)

@成形
 皿は皿、カップはカップ、洋食器のアイテムの形を作るのを成形と呼ぶ。ここから行程は大きく二つになる。皿のように丸く平たい物(フラットウェア)と、カップやポットのような立体的な物(ホローウェア)とでは成形の仕方が違うのだ。
 まずフラットの成形。これは簡単で、ろくろを使う。動力で動く直径40センチぐらいの貴族の円盤を回し、その上に必要な竜尾だけ拝観を通し適時が落ちてくる。そばにいる職人が小手を当てて平らにならすのだ。
 一枚皿が成形されるまでの時間はだいたい20秒ぐらい。形が出来たら、職人は型くずれしないように皿を持ち上げてろくろからはずし、乾燥板の上に置く。これでできあがり。
 ホローはもう少し複雑だ。ティーカップを見てみよう。ホローの成形には鋳型が使用される、繰り返し使えるが10回が限度だろう。
 直径1メートるぐらいのゆっくりと回転する円盤を考えてみてほしい。その円周にこの鋳型がずらっと並んでいる。その周りを職人が3~4人取り囲んでいて、鋳型が一定の場所に回転してやってくると、蛇口のような所から生地が流れる。空洞部分が一杯になると蛇口を締めて、円盤ごと次の鋳型を回して運ぶ。一周すると、職人が鋳型を持ち上げて、中身を落とす、鋳型を分解すると、そこでカップが出てくるのだ。
 ようは生地の厚みを円盤の円周で決めているのだ。鋳型にはカップの外側しか彫っていない、一杯に生地を注ぐとただの石の固まりになる。中を空洞にするために、弱いネツを銜えて外側だけ個体にして、残った液体部分を全体が乾燥しきる前に捨てておく。この時間が、鋳型が円盤に乗って一回転するまでの時間だ。長く回るとそれだけ多くの生地が乾燥するので厚い生地になるというわけだ。
 ホローはこれだけで終わらない。カップの取っ手がついていない。まずはスポンジングという行程で表面をなで、継ぎ目などの粗い部分を修正する。そして、液状の生地を接着剤にして取っ手をくっつけてできあがり。
 なお、ポットだとここに注ぎ口をあける作業も入る。

@素焼き
 一回目の釜入れが次の行程。水分を飛ばして、形を固める作業だ。日本語では素焼き、英語ではビスケット。
 磁器とボーンの違いは釜の温度。ボーンは1200度の高温、磁器は900度ぐらいと低い。現在の釜はトンネル釜といって、10メートルぐらいの長さの小さなトンネルを思い浮かべればそんな漢字。
 その上を整然と積み上げられた生乾きのアイテムがゆっくり入っていく。ボーンだと12時間はこんがり焼かれる。燃料は現在重油だが、小さいアイテムはガスで焼かれたりする。

@研磨
 焼き上がったビスケットは表面がざらざらで製品にはならない。コレを磨いてつるっつるにするのが研磨。しかしサンドペーパーでこするわけではなく、ちょっと面白い方法がある。
 直径二メートルぐらいのドラム缶のようなものがある。その中に小石がぎっしりつまっていて、そこの方から振動がきている。中の小石が踊っているわけだ。
 その中にビスケットを手で投入する。一分ほど踊らせておけば、表面がつるつるになってしまう。ビスケット事態は既にボーンチャイナ本来の堅さになっているので、この行程で形が崩れたり壊れたりはしない。

@施柚と本焼き
 釉薬は通常透明なガラス質の幕の事。表面の保護、つや出し、ずいぶん野完全なシャットアウトをする。
 かけ方はアイテムで違うが、手でどぼんとつけ込む事もあるし、ベルトコンベアに乗せてスプレーでかけたりもする。
 かけ終わると二度目の釜入れになる。このときは1000度の焔で12時間ほど約。ここで焼き上がった物はグロストと呼ぶ。この時点で立派な製品ができあがり、レストランやホテルで使われる白の器は、この時点で完成しているのだ。
 ちなみに、イギリス式と大陸式では釉薬をかけた後の焼き方が違う。イギリスはカップを使うときと同じ状態、つまりそこをしたにして釜入れする、大陸ではカップを伏せて焼くのだ。
 もし手元にカップがあったらさわってみよう、イギリス式は飲み口に釉薬がかかっているが、そこにはかかっていない。これは底を下にして焼くから。大陸は逆に飲み口がちょっとざらついていて底がつるつるしている。
 なお、フラットは世界共通。底を下にして釜入れしている。

@装飾
 いよいよ装飾の行程。製品によってはここが逆になる事がある。釉薬をかけてから装飾するか、装飾してから釉薬をかける科だ。前者を上絵付け、後者を下絵付けと呼ぶ。さわったときに柄がざらついていると上絵付け、つるつるしていると下絵付けだ。
 装飾方法は手書きか転写紙かの2種類ある。手書きは東西問わず焼き物が生まれてからずっと使われた伝統の方法だ。和食器では大振りな筆遣いで柄を描いたり不定型な柄を楽しんだりなどもするが、洋食器の場合は緻密に書き込む事が多い。そのため手書きはいつも高価になりやすい。
 これに対して転写紙は早く安く、大量に作れる。今日販売されている洋食器の大半はこれだろう。
 転写紙というのはがらを印刷したシールのような物。水に浮かべて台紙からはがし、一枚一枚、貼っていく。慣れていないとちぎれたり気泡が入ったりもする。
 転写紙は生産ラインとは別の工場で作られる。製造はわりと複雑なのだが、簡単に言うと次のような感じ。
 まずはデザイン部門でデザイナーが柄をCGを使ってデータに書き直す。同時に平面のデザインスケッチを縮尺やカーブを計算して入力、この時点で色や濃さなどを分析しながら分解していく。
 色は点の集合で表現され、大きなフィルムに焼き付けられる。もし柄が青一色なら青一枚、ハドンホールのような12色なら12枚必要になる。
 そのフィルムをステンシルという布に焼き付けて準備は終わり。これを印刷機に乗せて転写紙の台詞を差し込むとできあがりだ。
 時間がかかるのはフィルムを作る枚数より乾燥の時間。一色で24時間の乾燥をさせないと、次の色が刷れないのだ。12色使うとなると、一枚野天斜視の完成には最低12日かかるという事だ。

@焼き付け
 柄を焼き付けるために窯入れをする。コレで3回目だが今までの窯入れは全て別々の窯で行う。絵付けの場合は900度ぐらいで8時間ほど焼く。小さい物だと4~5分ですむらしい。
 
@縁取り
 ほとんどの洋食器の柄には金の縁取りかカラーの縁取りがある。それをつけるのが最後の行程。金縁は焼くときに金が蒸発して亡くなってしまうので、最後にこれを行う。
 ほとんどの製品はこの時点で完成。後は梱包して店頭へ出荷するだけだ。

5.アイテム各種
 洋食器には実に数多くアイテムがある。しかも名前も使い道も決まっていたりする。(ように見える)
 何をどう使えばいいのかわかりにくいし、セットはそもそもどんな感じなのかもわからん。そういう疑問を整理して、簡単にまとめてみたい。
 自由に使うと言ったが、形式を崩すには形式を知ってから。まずはかるーくお勉強しよう。

@カップ類
 一番最初になじみの深いカップから。日本でも主力商品で、紅茶などは世界共通品、日本の生活にもとけ込みやすかったのだろう。
 しかし普及している割には形状に関する詳細は知らなかったりする。どのカップの形にも理由があるのだ。
 まずはティーカップ。いろんなメーカーがティーカップを製造しているが、形状は一言で表現出来る。高さが低く、飲み口が広い、これである。
 なんでこういう形になっているかというと、この形が紅茶には一番いいからだ。紅茶を語るときは、おいしい紅茶を飲みたいなら、ティーポットをやかんの方へ持っていけ、という。おういう作法は全て紅茶の葉と湯の温度に関わりがある。沸騰した手の湯を使って始めておいしい紅茶ができあがる。ようは紅茶というのは本来ものすごく熱い飲み物だということだ。
 これをおいしく飲むにはどうするか。液体の表面積を広げ、上だけでも温度を下がりやすくした。そのため、ティーカップの飲み口は広いのだ。しかし、指で持ち上げられる重さに限界がある異常、高さを低くして容積を調整しないといけない。このため、ティーカップは背が低い。つまりこの形状は、熱い紅茶をいかに楽しむかという工夫で出来ているのだ。
 なおここからはこだわりの話だが、本来あるべきカップの姿はロイヤルアルバート[11]のようなものだという。上のくびれはウェスト、その下はヒップ、一番下がスカート。
 飲み口は表面積を広くして温度をさまして、お茶全体がさめるのは良くないので、ウェストで絞り、下の方までさめないようにする。茶はヒップの部分で対流して温度を保ち、スカートでソーサーとの間に空気の層を使って保温させる。というものだ。
 ちなみにスカートがあるのがフォーマル、無ければカジュアルらしい。あと、取って(ハンドル)がカップにつけらっるのは18世紀の終わりから、それまでは中国時期夜話陶器のように胴体だけだった。このハンドルはつまむ物であり、指を中に入れる物ではない。
 ・・・とまぁ、この説も賛否両論で、いいきっていいかは判らないが、どうやっても指の入らないハンドルのメーカーも多くある。まして、女性はつまんだほうが上品に見えるような気もする。
 次にコーヒー。
 これは紅茶と違って温度がそれほど味には影響しない、製法状紅茶より少し低い温度でできあがる。だからこそなるべくさめるのは遅くしたい、そこで表面積は小さくなって、飲み口は狭く。背を高くして要領を稼ぎ、コーヒーカップは背が高いのだ。
 ロイヤルドルトンやウェッジウッドなどはシンプルな円筒形だが、多種多様な形の物がある。特にジノリはラッパや角形、など色々ある。[12][]13
 一般的な話だがコーヒーの容量はティカップよりも少ない。幅はあるが、コーヒーで100~150。ティーカップは200~230ぐらいだろうか。むろん、これは質が違うせいだが、薄いアメリカンコーヒーがポピュラーな日本では違和感があるだろう。コーヒーは本来濃いものでがぶ飲みする物ではない。まぁお国柄で様々なので、カップにも色々ある。
 デミタスカップというものがあるが、コレは通常よりも一回り小さい、エスプレッソ用。フランスに始まったカフェオレはティーカップより大きく250~300入るものがある。だがこのアイテムを扱うメーカーは少ない。名前もカフェオレカップではなく、モーニングカップという。
 次にマグカップ。これは一言で言って「何でもあり」。紅茶だろうがコーヒーだろうがなんでもいい。というより対応させたカップだ。
 いつごろ作られたのかは判っていないが、有名ブランドが作り始めるより前からこうした簡易な器は庶民の間で使われていたはずだ。その原型はビールジョッキや水差しで、磁器とは別の場所で誕生したのではないだろうか。
 主要なのは以上だが、他にもジノリにチョコレートカップ[12]などもあったりする。ヘレンドでは蓋つきカップをハーブティー用[13]として売っていたりもするのだ。
 こういったカップは異例の物で、コレクションカップに近いものがある。

[11] ロイヤルアルバート http://www.moshimo.com/item_image/0015700004346/1/l.jpg
[12] 角形コーヒーカップ http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/sevres/cabinet/00376600/img47025645.jpg
[13] 変形コーヒーカップ http://jmohya.b-smile.jp/consumer/goods/images/00085_1.jpg
[14] チョコカップ http://withlovefromnewyork.com/images/rg097_small.JPG
[15] ハーブカップ http://www.sohbi-company.jp/shopimages/gcom156/0020010000532.jpg

@プレート
 洋食器では料理を盛る皿は丸形と相場は決まっている。サイズはメーカーで違うが共通、用途で3つに分けられている。
 ディナー=大、ケーキ=中、パン=小
 この3種類が基本。大きくはずれる物はバリエーションと思えばいい。
 まずディナープレートだが、コレが一番大きい。なぜかというと、日本の家庭とは違って、向こうの料理はメインディッシュの肉や魚に温野菜が付け合わせで出てくるからだ。これらベジタブルを大量にディナー皿の上に盛ってくる。だからこそこれだけ大きくないといけない。
 ディナープレートとはそれ一枚で完結するものの事。たっぷりの量と種類を乗せるための皿だ。
 ディナープレートはコース料理の一部ではなく、てんこ盛りの皿だと思えば、用途は幾分か広がるのでは?
 そしてケーキプレートは20センチ前後ぐらいの大きさだ。本来は食後のデザートやケーキを盛るための物だが、拘る必要はない。前菜がコレにのって出てきたりもする。
 そしてサイズの構成上一番小さい物がパンプレート。これ以上小さいと特殊なバターディッシュなどをのぞけばほとんどないだろう。
 どうして小さいかというと、最初から最後までずっとテーブルの上に乗っているからじゃまにならないようにしているのだ。なくなればすぐに給仕が代わりを盛ってくるのでいくつも盛っておく必要もない。
 しかし、パン皿とはいえ16~18センチぐらいの皿というのはかなり便利なサイズだ。テーブルにもしっくり来るし、使い方は実に幅が広い。これだけ重宝するサイズは他にないが、パン皿、という名前がじゃまをしているのだろう。
 使いこなすにはこのあたりからどうだろうか。
 そしてその他のプレートだが、他にも重要な物はいくつかある。まずはスーププレート[16]。サイズは20~23センチ。スープを入れるために深くくぼんでいる。くぼんでいるところは17~18センチぐらい、そのほかをウィング、羽と呼ぶ。
 このウィングがついているとフォーマル。コレを取り払った物がクープスープ[17]。名前はフランス語のクペ、切るという意味から来ている。こちらがカジュアルで、シリアルだとか多目的ボウル、などとも呼ばれたりする。
 もう一つ大事なのはB&Bプレート[18]。ブレッド&バターのことで、ちゅおしょくようにパンやバターをまとめて野説ための皿だ。大きさはディナーとケーキの中間くらい、少し深さがあって、帳は師にとってが突いている。コレもカジュアルな品だ。
 このB&B、ミントン製はよく結婚式の引き出物に使われるらしい。このB&Bプレートがあればだいたいの朝食は一枚で事足りる。もし仕舞い込んでいたら使ってみてはいかがだろう。

[16] スーププレート http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/toscana/cabinet/rms5/img10603881854.jpg
[17] クープスープ http://a248.e.akamai.net/f/248/37952/1h/image.shopping.yahoo.co.jp/i/k/sara-cera_b0001070
[18] B&Bプレート http://shop.flimart.com/tableware/wp-content/uploads/119.jpg

@ディッシュ
 ディッシュとプレートは区別が付きにくい。メーカーによってはバターディッシュ、なのに他のメーカーだとバタープレートだったりする。
 定義としては深さがあって、形が丸ではないフラットウェア、だろうか。
 まず、どんなメーカーにもあるフルディナーセットの必須アイテム、オーバルディッシュ[19]。形は直径30センチぐらいの楕円形だ。用途はメイン料理の盛り皿。大きい料理をここからみんなで取り分ける事になる。
 少数家族の日本ではなかなか使いどころが難しいが、人を招いて食事をするにはいいかもしれない。
 他にも野菜を入れるカバードベジタブルディッシュ。いちおうあるという事を知っているだけで十分なぐらいマイナーなものだ。
 変形ディッシュなどはあるのだが、どれも用途も形も様々で一概には言えない。

[19] オーバルディッシュ http://a248.e.akamai.net/f/248/37952/1h/image.shopping.yahoo.co.jp/i/k/sara-cera_s0001872

@ボウル
 文字通り鉢のこと。メーカーによって色々な名称と用途がある。
 共通しているのはまずサラダボウル。直径20センチぐらいで文字通り生野菜を入れるための物。ただこれをフルーツボウルとして売っているところもあるのでどっちに使ってもいい。
 気づいたかもしれないが、カップ、プレート、ディッシュと見てきたが、どんどnアイテムの定義が曖昧になってきている。メーカーごとに自分のネーミングと用途の提案をしていて、決まり事が無くなっているのだ。
 販売員にアドバイスを求めるのもよいし、ブランドカタログを見てどんな使い方を提案しているか見てみるのもいい。ここまで来ると名前に意味はほとんどなくなり、極端になるとハドンホールのフルーツソーサーに湯豆腐入っててもOKだ。

 
6.デザインを選んでみる


@ベストセラーのデザイン
 輸入洋食器を語る上では欠かせない有名なデザインはいくつかある。その中からいくつか引っ張って紹介してみよう。

@ウェッジウッド ワイルドストロベリー
http://image.www.rakuten.co.jp/anrichte/img10464451916.jpeg
 数あるウェッジウッドデザインでも有名なのはこのワイルドストロベリーだろう。日本でも人気のあるがらの一つだ。1965年発表だがデザインの原画は19世紀初頭にさかのぼれる。
 ウェッジウッドには珍しい絵柄で、器一杯に野いちごの実と葉、花が広がっている。全体的にソフトな色遣いだが、イチゴは鮮やか。
 器の形はトラディショナルシェイプ。ティーカップにはリー・ピオニーの2つがある。アイテムの幅が広く、色々なアイテムがほとんど揃っている。

@ヘレンド アポニーシリーズ
https://ssl.le-noble.com/g_jpgs/HE0000ST0002/02.jpg
 アポニーシリーズはヘレンドの中でもベーシックなロングセラーだ。柄のデザインはマイセンが開発した「インドの華」がモチーフで、東洋の香りが強くしている。7色のバリエーションがあり、それぞれ色合いが美しい。
 形状は非常に品のあるロココ調。波打つエッジ、取ってなどほどよい装飾になっている。

@マイセン インドの華
http://shop.matsuzakaya.co.jp/image/3/cmdty/494292_1000_L.jpg
 品質もすばらしいが値段も破格のマイセンにはベストセラーというものはないが、例を取ってインドの華を紹介しよう。人気があり類似品が多い。
 柄は単色で様式化された花柄。全面に広がる模様の中に廃された金のポイントが綺麗だ。形状は完全にロココで、飲み口は波打って、ハンドルにはねじりが入っている。18世紀の伝統を残している数少ないデザインの一つと言っていい。
 
@ミントン ハドンホール
http://www.smartbaby.jp/image/common/item/HN-211-04L.jpg
 1970年代、こんな柄は日本では受けないだろうと思いながら導入デザインだという。だが今では押しも押されもせぬベストセラー。確かに類を見ないデザインではある。これだけ色香図が多い様式化された花柄は他にない。
 この柄の最大の魅力は色彩だ。ハドンホールはピンクを基調にして、ハドンホールブルーは青を基調に、12色が絶妙なバランスで配置される。この色彩は独特のものだ。
 
@ジノリ イタリアンフルーツ
http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/sohbi/cabinet/080914/005201421360026.jpg
 フルーツを使ったがらとしては知名度の高いジノリの顔。寂しすぎず、うるさすぎず、大雑把でもない絶妙な配置が美しい。
 このがらにはバリエーションがあって、どの絵転写紙をどの向きにつけるから葉職人と絵付け師の自由である。同じアイテムを見比べてみると、ちょっとずつ花の種類や向きが違っていたりする。この細かいバリエーションもこのがらの楽しみだろう。
 形状はアンティコドッチアというロココで、変化に富んでいる。

@ロイヤルアルバート オールドカントリーローズ
http://a248.e.akamai.net/f/248/37952/1h/image.shopping.yahoo.co.jp/i/j/d-kintetsu_mo-62551-2631-no207-y
 本社の発表だと追啓生産数は1億をこえ、単独の柄としては世界最高の生産販売数を誇っている。最も値段が安いのがその理由だが、色々な世界で幅広い人気があるのも理由だ。
 強烈な紅いバラが描かれ、粉をまぶすような金銭で縁が取られている。ステーブル技法というもので、スポンジに金を含ませ叩いて金をつけていく方法。他のメーカーにはない技法だ。
 形状はロココ調。

@ロイヤルクラウンダービー ロイヤルアントワネット
http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/sohbi/cabinet/img55308529.jpg
 このロイヤルアントワネットは発売されたのは1959年、だが原型は18世紀にさかのぼる。形状はロココだが、大陸の影響を消化して独自のデザインになっている。ソーサー類が上下にも波打っているのが特徴だろう。このブランドの生地がエッグシェルという極限まで薄いボーンチャイナだという事もつけくわえておく。

@ロイヤルコペンハーゲン ブルーフルーテッド
http://www.daimaru.jp/image/1/cmdty/403795_0000_L.jpg
 多種多様なデザインを持つロイヤルコペンハーゲンの中でも、窯の設立から二百数十年作り続けられているベストセラーだ。柄は典型的な東洋趣味の様式化された花と葉をモチーフにした物。だが物まねではなく、ある程度の規則性を持たせているのは西洋らしい。名前のフルーテッドとは、縦縞のこと。
 縁の処理の違いで3つバリエーションがある。何の飾りもないのがプレーン、エンボス(浮き彫り)があるのがハーフレース、ピアス(透かし彫り)があるのがフルレースこの3つだ。
 柔らかな下絵付けの発色も魅力的だが模様の形も面白い。くねくねとのびている蔓に妖しい魅力がある。
 
@ロイヤルドルトン カーライル
http://image.www.rakuten.co.jp/urban-village/img10042892888.jpeg
 大陸メーカーに比べるとイギリスのメーカーは柄の回転が速い。ハドンホールは50年、オールドカントリーローズは35年、アントワネットでも40年。このカーライルも同じで、25年しか立っていない。
 それでもロイヤルドルトンのベストセラー。
 柄も形状も完全な新古典主義。いかにもイギリスらしい。ほとんど医科学模様まで形式化された花と葉が連続反復して金銭で描き出されいてる。かわいらしさより拡張打開雰囲気を作っている。
 形状はクラシック。新古典的なシンプルさが際だっている。

 日本で知られているのはこれぐらいだろうか。他にもメーカーには数え切れないほどのデザインがあるが、コレラの紹介がデザインを選ぶ上での役に立てば幸いだなー。


7.シメ


 輸入食器が本格的に日本で販売されたのは1970年代から。その後色々なブランド品を同じく輸入量が増えて、着実に市場を拡大してきた。
 使われているよう見えるものの、実際は引き出物やギフト用で、個人が自宅用に買っていくケースはまだまだ少ないでしょう。アクセサリーは自分のために買うのに、食器はどうして他人のために買われるのか。実際に使ってみれば驚くほど便利で日本の食卓にもしっくりくるのに、値段が高いとか、使いにくいとかの先入観があるせいではないか。
 そんな観念を払拭して、少しでも手元に洋食器を置いて楽しめれば、と思い、大学の授業で発表する上で描いたレポートや、集めた情報を元にしてこの原稿を書いた。
 時には図書館にこもったり、時にはネットに頼ったり、時には陶芸科、ガラス工芸科の教授や同級に聞いてみたり。それなりに苦労して作ったこの原稿が、読んでいる人の役に立てばこれ以上はないかな。
 協力してくれた教授、友人、すばらしい情報を提供してくれたサイトや、読んでくれた方々、放送大学を誘ってくれたじいじに、心からお礼いたします!
 
 2009.2.20 彼岸過迄 (*´ω`*)ノ

December 22

講義再開の予定

現在口の中を切ったせいで講義を休止している彼岸過迄です。
 
グレープフルーツコンボでなんとか治りかけています。
今週中には復帰出来ると思うので、またよろしくお願いします。
 
告知はメッセ、ギコのイベント登録、そしてこのブログで行いますのでチェックはこの内のどれかでどうぞ。
 
(`・ω・´) 次の講義内容を考え中。「西洋墓地史」「毛皮について」「日本庭園略史」を予定。
       どれにしよっかなー。
December 19

講義中止のお知らせ('A`)

どうも彼岸です。
 
昨日の夜食を食っている時、思い切り口の中をかんでしまいますた('A`)
おかげであんまり喋れない状態です。
 
講義配信はキツイのでちょっとだけお休みにします(´;ω;`)
口の中が直り次第、すぐに講義を再開しますので、少々お待ちください!
 
 
さぁグレープフルーツを摂取する作業が始まるお・・・。
 
December 18

【英国紅茶論争】第二回講義:「イギリス上陸」

本日、バーにて第二回の講義を行いました。
来てくれた方ありがとう(`・ω・´)
 
今回はオランダからヨーロッパへ茶がもたらされた、という前回の内容をふまえて、イギリスへの浸透の流れを追いました。
まずは宮廷へ、そこから民衆へ。そのポイントとなった王妃キャサリンやコーヒーハウスの役割に関してでした。
 
次回はいよいよタイトルにもある通りの「紅茶論争」に関してです。
イギリスなど様々な場所で起こった当時の紅茶論争に関してダイジェストでお送りします。
 
次回は明日の22:00ですよー。
人数が少ないときは、少し開始時間を遅らせることもあります(´・ω・`)
 
 
なお、今回は原稿をちゃんと用意してきたので、その内容をこちらに貼っておこうと思います。
見逃した人、復習したい人はどうぞー。
 
 
 
 
【英国紅茶論争・第二回 : イギリス上陸】
 
 1.宮廷での流行
 オランダ、フランスなど大陸諸国で茶が人気を集め、いくつかの茶論も出始めた頃、イギリスではどうだったのだろう。
 茶はオランダを経由してイギリスへ伝わった。1615年、東インド会社が日本の茶を注文した、という手紙も残っている事から、17世紀初期にはイギリスでも茶が飲まれ始めたと考えてよいだろう。
 しかし実際には、1660年の王政復古以前、茶は大きな流行にはなっていない。ピューリタン革命前後の農民の反乱や、議会と王の対立、革命の内乱の時代には、茶を楽しむような余裕などなかったのだ。
 いよいよ茶が流行し始めるのはチャールズ2世が王位につき、ポルトガルの王女であるキャサリンが奥秘になったところからである。一ほう、1650年ごろには、ロンドンなどにコーヒーハウスが作られ、そこで茶が飲まれるようになる。コーヒーハウスはコーヒーだけでなく、輸入品であるココアやお茶も出していたのだ。
 やがて、コーヒーハウスで売られる新しい飲み物に税金がかけられるほどの流行となる。人気になったコーヒーハウスの出し物が、課税対象として注目されるほど広まったという事だ。
 
 イギリスで茶が人気になる家庭を見るとき、大事なのは宮廷・コーヒーハウスという茶の流行の二大中心地である。しかし、茶がイギリス人の生活に根を下ろすようになったのは、なんといっても家庭で、女性達に好まれる飲み物に発展したからに他ならない。つまり、茶の定着の鍵を握るのは、市民階級の一般家庭、そしてその主婦達だったのだ。
 そこで、今回は宮廷と王妃キャサリンがもたらしたものについて、そしてコーヒーハウスから市民階級の家庭の茶について追っていく。
 
 ルイ14世の中国陶磁器コレクションを見てもわかるように、当時のヨーロッパの宮廷には異国趣味が大流行していた。ココア、コーヒー、茶という外来の飲み物も、世界中から輸入された物資の一つだった。
 そして、これらの飲み物が、人のつきあい方、社交や食文化さえも大きく左右するほどの影響を与えることになる。
 
 
@安全で美味しい
 では、どうしてそれほどの大きな需要が生まれたのか。言い換えれば、どうしてこの得体の知れない新しい飲料が、これほど好まれて生活に深く根付くことのなったのか。
 無論、東インド外車や西インド会社の経営手腕、政治的な誘導があってこそというのは間違いない。流行を作るには仕掛け人がいるのだ。だが、一握りの政治家や承認が頑張ったところで、国民大半に初めて見る色の付いた水を飲ませる事を習慣づけられるか。
 それを解き明かすため、国全体のレベルで見る前に、個人レベルで考えてみよう。世界史の流れを変えるほどの流行になったからには、当時のヨーロッパ人にとってそれだけの魅力があったということになる。
 その魅力とは何か。それはずばり、ヨーロッパの歴史上では初めて、酒以外に衛生上安心して、日常的に飲める飲み物だったから、である。
 しかも、これらがカフェインを含んで、精神の高揚や覚醒につながるという点も、当時のプロテスタンティズム、産業主義、生産能率向上と結びついてこれだけの人気になったのだ。加えて、肉食中心で野菜の少ないオランダやイギリスにおいても、消化を助け、ビタミン類を補い、便通を整える意味もあった。
 茶がイギリスにもたらせる以前、イギリスの人々のどんなものを飲んでいたのか。水、ミルク、ホエイ[1]なども飲まれてはいた。しかし水は場所によっては不純物が混じっていたり、伝染病の原因にもなる危険なものだった。また、ミルクも腐りやすく、生計つとはいえない。ホエイは貧しい農民の飲み物だったがこれもまた腐りやすかった。
 

@ビールとエールばっかり
 では、日常的に何を飲んでいたのか。最も広く飲まれていたのは、美0留やイギリスに古くからある軽いビールで、もとはホップ不使用のエール。これが、老若男女問わず飲める飲み物だった。
 17世紀に色々な飲料が輸入されてきたとき、ビール醸造業者達は危機感wの感じて新しい飲み物に反対するんどうさえおこしている。このころになると、これらの飲み物がビールの地位を脅かすほどに流行し始めたのだ。
 

@キャサリンの嫁入り道具
 ポルトガルの王女キャサリンはイギリスへ嫁ぐとき、応急から色々な嫁入り道具を持ってきた。
 インドの綿、中国の陶磁器、日本の漆器や工芸品、その他東洋の家具調度は見る人の目を見張らせた。イギリスにはこれまでなかた、見事な職人芸の一品ばかりだったからだ。そして、一緒に持ってきた茶が、大変珍しい東洋の飲み物として宮廷の中でもてはやされるようになり、一般の民衆の茶に対するあこがれを強めた。
 
 
@中国の陶磁器で
 キャサリンの故国であるポルトガルは、16世紀の初め以来、武力によって東アジア貿易を静止、香料を初めとして、インド、尾中国、日本などの多くの物産をヨーロッパに運んでいた、キャサリンはポルトガルの宮廷で茶を楽しむことになれていた。
 キャサリンは宮廷に茶を運んだだけでなく、この時期を初めとする中国の茶道具をそろえて、習慣をイギリスの宮廷にもたらした。
 この東洋のきれいな時期で楽しんで飲むお茶というのは単なる薬としてのお茶とは違う。イギリスでは、まだ歴史が浅かった茶の楽しみ方をキャサリンが伝えたといえる。
 茶が「薬」から「嗜好品」に変わる第一歩は、このように宮廷に「お手本」があったからといえる。名誉革命後の宮廷は王政復古のような華やかさはなかったとはいえ、オランダで茶と中国陶磁器の趣味を身につけたウィリアム3世、メアリ、アン女王は、いずても茶を好む君主だった、このように何代かにわたってお茶好きの君主が続いたことでイギリスに茶が受け入れられる下地ができあがったのだ。
 
 
@輸入体制キター
 茶が一般の市民にも手の届く思考飲料になるためには十分な良の茶が供給されなければならない。東インド会社が直接茶の輸入に乗り出すのは1668年のことだ。1685年に中国の輸出禁止が解除されてからは、中国からの輸入の体制が整って茶の販売価格も大幅に引き下げられて輸入の量も大幅に増加した。
 1700年代になれば茶の国内消費はめざましい勢いで伸び、東インド会社の輸入40%をしめる主力商品にさえなる。
 ほかにも、上流階級の贈り物にするほど貴重だった茶の価格を下げた理由として、茶に対する当時の重税が上げられる。1773年のボストン茶会事件[1]に見られるように、アメリカ植民地が独立を求めて戦争を始める一員となったのも茶に対する重税だった。
 茶税は、関税と消費税をあわせたもので、1660年ごろかr雨だつようになり、18世紀近くには非常に重い税金が課せられた。そのため、イギリス人は原価の倍近い茶を買わされることになる。1784年の減税法以後、ようやく茶の値段は下がり、密輸入は止んで、イギリス東インド会社は利益を保証されて安定した成長を遂げるようになる。
 
 
2.家庭に広がる紅茶
 このように宮廷やコーヒーハウスで始まった茶の流行は、まもなく市民階級の家庭にも広がるようになる。
 そのきっかけともいえるのが新聞だった。時代の流れとともに朝食の内容が変化する事を察知し、「バターつきパンとお茶の朝食を取ってらっしゃるファッショナブルな家庭で」読んでもらうための新聞、『スペクテーター』がそれである。
 このスペクテーターが記事の中で、紅茶の費用に嘆く夫の姿や、朝食の様子、茶に関する情報などを掲載する内に、自然と民衆の中に広まっていったといえる。
 
 
@コーヒーハウスの力
 この時代のコーヒーハウスは、政治経済文学、ざまざまな分野に大きな影響を与えた。イギリスという場所で重要なのは、異なる職業や改装の人々が、同じテーブルで話をして議論できる事だった。知人や友人と語らって、知り合いを増やすのにも都合がよく、商談も出来て、全く見ず知らずの人と議論を始めることも可能だった。コーヒーハウスとは、新しい市民階級の人々のるつぼとなり、新しい時代を生み出す場所になっていた。
 しかも、当時の情報源である新聞は貴重な出版物で、コーヒーハウスにやってきて読む、というのが一般的だった。新聞を片手に、知人達と議論を交わしながら、茶を一杯。という姿が目に浮かぶ。
 加えて、当時の民衆にとって、茶というのは薬であり、贅沢品嗜好品として認識されていたことから、その値段が下がった時に、既にこういった施設や記事で受け入れられていた茶の文化が、広く浸透するようになったのも自然の流れだったといえるだろう。
 
 
ヨーロッパの家〈4〉イタリア・ギリシア・ポルトガル―伝統の町並み・住まいを訪ねて
カフェレストラン (ショップデザインシリーズ)
西洋紋章パヴィリオン―その形や色にかくされたドラマ
図説 海賊大全
紋章が語るヨーロッパ史
小林カツ代料理の辞典―おいしい家庭料理のつくり方2448レシピ
イギリス紅茶事典―文学にみる食文化
建築史の基礎概念―ルネサンスから新古典主義まで (SD選書)

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